4月8日(火)から開催されます「企画展 発見!イチオシの宝もの」から

主な展示品の数々を ”さくっと”解説したいと思います。

江戸時代に最上川の舟運と北前船の寄港地として栄えた湊町・酒田には、多くの物資とともに美術的・歴史的にも価値の高い貴重な品々が伝わっており、その当時の繁栄を偲ばせる酒田市において、昭和22年(1947)の開館以来、地域の芸術・文化の向上に努めてきた当館には、東日本を代表する豪商、日本一の大地主として知られるようになった本間家をはじめ、市民や美術コレクターからのご寄贈、美術館活動の一環である収集によって、貴重な国・県・市の指定文化財や芸術性の高い名品が多数所蔵されています。

彫刻誕生仏立像ブログ
誕生釈迦仏立像
制作年/飛鳥時代頃

釈迦の誕生を祝う誕生釈迦仏です。
銅造りで1300年前の作とされています。本来、誕生仏は童形童顔で右手を上に挙げていますが、本像はほっそりとした肢体に面長の顔立ちで、右手は湾曲し頭部に触れている点などの違いがあり、歴史的にも貴重な誕生仏の一つといえます。小さくて愛らしい表情が何とも言えない有り難さを感じさせてくれます。

松尾芭蕉ブログ
松尾 芭蕉 玉志亭唱和懐紙(ぎょくしていしょうわかいし)
制作年/元禄2年(1689)

元禄2年6月、松尾芭蕉が『奥の細道』行脚中の酒田で、近江屋三郎兵衛(俳号は玉志)宅に招かれた折に、瓜のもてなしを受けて即興で詠んだ句を染筆したものです。芭蕉の酒田来訪時より、当地に残った唯一の遺墨でもあります。
句のない者には瓜はおあずけという座興に、一座の人々が詠んだ4句が書かれています。芭蕉の句は「ご馳走に初物の真桑瓜が出された、いかにも美味しそうだ。さあ、4つに縦割りにして食べようか、横に輪切りにして食べようか」の意。宴の場らしい、即興の軽い句で、主人への挨拶の気持ちが込められています。また、即興の染筆らしく、前書に1か所、曽良の句に2か所、推敲の跡が伺えます。

↓下記の収蔵品は今回展示予定はありませんが、生前の松尾芭蕉をよく知る人物・杉山杉風が描いた物です。
杉山杉風(1647~1732)は、江戸幕府の御用をつとめた魚問屋で、松尾芭蕉に親近し終生忠実に仕えた、蕉門十哲の一人。狩野昌運に本格的に画技を学んでおり、生前の芭蕉をよく知る杉風の描いた芭蕉翁像は風貌を正確に伝えるものとして定評がありました。
本図は、他の作品と比べ穏やかで親しみやすい表情で描かれ、図上に芭蕉の句が添えられています。

絵画伝杉山杉風亡師芭蕉翁像ブログ

honmaPfujiブログ
竹内 栖鳳 富士図
制作年/明治15~35年

この屏風は、棲鳳号の時代(18~38歳)に描かれた。構図には雪舟や探幽などの富士図の影響が見られ、狩野派・土佐派を始めとする諸派、画家では雪舟・応挙・大雅・蕪村など広く研究していた頃の力作と言えます。
大画面に刷毛で山肌を一気に大胆に描き上げ、気迫に満ち富士の雄大な姿を見事に表現。また、富士の描き方には洋画のような表現が、麓の山々や松林、作品全体の雰囲気には大和絵の要素が見られ、古来より繰り返し描かれてきた「富士」という題材に、果敢に挑戦する栖鳳の意欲が感じられる作品です。


A13-1965市河文書北条義時消息ブログ市河文書ブログ
市河文書 (重要文化財)
制作年/平安時代末期~戦国時代末期

市河文書は、平安時代末から戦国時代末に至る約400年間にわたって、奥信濃(現在の長野県下高井郡北部)を支配していた豪族市河氏に伝えられた信濃国(長野県)を代表する武家文書です。現存する唯一の木曽義仲自筆花押を伝える《木曽義仲下文》をはじめ、《北条義時消息》や《武田信玄定書》などが含まれており、全国的に見ても貴重な武家文書として高く評価されています。


色絵鳳凰草花文八角鉢ブログ
色絵鳳凰草花文八角鉢 
制作年/江戸時代前期

17世紀後半の肥前国(佐賀県)有田にて柿右衛門様式でつくられた優美な鉢です。濁手と呼ばれる乳白色の素地に、鳳凰文や牡丹文が映えています。主に海外向けの製品として一世を風靡した柿右衛門様式磁器ですが、本間家に伝来したことから、国内の流通を示す貴重な伝世品の一つと位置付けられています。


IK1478絵画狩野芳崖龍虎之図2ブ
IK1478絵画狩野芳崖龍虎之図ブ
絵画狩野芳崖龍虎之図一部ブログ


狩野芳崖(かのう ほうがい)龍虎之図
制作年/幕末~明治時代

狩野芳崖(1828~1888)は、長門国(山口県)長府藩の御用絵師・狩野晴皐の子。本名は幸太郎。弘化3年(1846)江戸に出て狩野雅信(勝川院)に入門し、橋本雅邦とともに同門の二神足と呼ばれました。安政4年(1857)頃から狩野家の古法の法外に出るという意味で芳崖と号したとされています。維新後は陶器や漆器の下絵を描いて生計を立てていましたが、明治15年(1885)にフェノロサと出会い、空間表現や光の捉え方などの画法、西洋絵具を使用することなどの助言を受け、新たな日本画の創造に挑みました。東京美術学校(現在の東京藝術大学)の設立にも尽力しますが、開校前に逝去。近代日本画の父とも称されています。
画題は伝統的な「龍虎」ですが、墨の濃淡や巧みな筆遣いによって、明暗や立体感、龍や虎の迫力が画面に表されています。一方で、龍や虎の体のポーズは、狩野派などの伝統的な型を踏襲して描かれています。


藤原定家消息ブログ
藤原 定家(ふじわらの ていか)消息 十月八日(重要文化財)
制作年/(建暦元年/1211)10月8日

日本文学史上大きな足跡をのこした公家・歌人の藤原定家(1162~1241)の自筆の手紙です。
建暦元年10月4日、二条良実の大臣任命の儀式に出席した藤原定家の子・為家(1197~1275)が、装束規定を守らなかったため、後鳥羽上皇からの下問がありました。本書は、その趣旨を書き記した手紙への返書になります。返書では、為家の落度を認めながらも、まだ14歳の子供であり、儀式の日程の急な変更により応じきれなかった次第を記し、不服を言いたいのは自分のほうであると心情を述べています。昭和初期、旧庄内藩主酒井家より本間家に伝わりました。


赤穂義士報讐図ブログ
安田 雷洲(やすだ らいしゅう)赤穂義士報讐図(酒田市指定文化財)
制作年/江戸時代後期

安田雷洲(生没年不詳)江戸後期の洋風画家。江戸四谷に住み、文化11年(1814)から安政5年(1858)に至る作品が知られています。葛飾北斎に学び、主として銅版画家として活躍。江戸名所風景連作や報道画・歴史画も制作し、銅版画を普及させた。肉筆洋風画にも異色作があります。
本図は、12月14日、赤穂浪士が吉良邸に討ち入り、吉良の首級をあげて亡君の無念をはらしたという「忠臣蔵」の一場面を描いており、洋風の陰影法や銅版画にならった描写が劇的で、背後の大きな月が不気味さを増しています。構図は『新約聖書』第三巻「羊飼いの礼拝」に倣っていることが分かっています。


酒田袖之浦ブログ
酒田袖之浦・小屋之浜之図  (酒田市指定文化財)
制作年/江戸時代中期
港口を中心に、山王社(現、日枝神社)や神明社(現、皇大神社)などの寺社や公方様御穀積所(幕府領米置場)、寺町通り、仲町などの街並みが描かれている貴重なもの。現存する酒田を描いた絵図としては最古級言えるでしょう。
袖之浦には「此浦ニ着船ハ千石余ノ大船ナリ」、小屋之浜には「此浦ニ着船ハ六七百石已下ノ小船ナリ」と記してあり、沖に停めた北前船から荷物を運ぶために、たくさんの小船が港から出ていた事が分か離ますね。


薩摩切子藍色小瓶ブログ
薩摩切子藍色小瓶 
制作年/明治8年頃(1875)

薩摩切子は、薩摩藩が幕末から明治初頭にかけて生産したガラス器です。10代藩主島津斉興が始めた薩摩のガラス製造は、開明的な思想を持った11代藩主斉彬の代に、イギリスやボヘミアのカットガラスなどを参考にして製作されました。当時の薩摩切子は、高価で数も少なかったため、幻のガラス器といわれています。この小瓶は、明治8年(1875)に薩摩土産として本間家に伝わりました。


太刀 銘月山作ブログ
太刀 銘月山作 (酒田市指定文化財)
制作年/室町時代初期

月山は、鎌倉時代から室町時代にかけて出羽国月山の麓を拠点として活躍した刀工の一派。その特徴は、刀身全体に波状の模様「綾杉肌」が表われていることで、「月山肌」とも言われています。
この太刀は月山の典型的な作風を示したもので、表に「月山作」の銘があり、室町時代初期の作と考えられています。


いかがでしょうか。
まだまだ紹介しきれない逸品が展示されます。是非、じっくりと実物をご覧いただき、当館のイチオシを品定めしてみてください。