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2025年最初の企画展「東北と北海道の浮世絵」(1月11日より)を開催いたします。

それに先立ち、主な展示作品を三つのテーマに分けてご紹介していきます。

★前編は「名所を旅する」「物産品を見る」
※現在の景色などと比較して楽しめます。

★後編は「歴史的・社会的な出来事を知る」です。



【前編】「
名所を旅する」「物産品を見る」

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浮世絵には当時の日本各地の様子が描かれています。
現在も面影が残っている建造物や風景と、現在では観光地になっている箇所もあります。
当時と現在の様子を比べてみると様々なことが見えてくるかもしれません。



福 島

C152二代 歌川国輝 諸縣名橋盡之内 摺上新橋はし


二代 歌川国輝《諸県名橋盡之内 摺上新橋》 明治
6(1873) 


摺上新橋(摺上橋)は、明治
6(1873)に完成した、当時としては国内最大級の橋だったとされています。木と鉄の混合の曲弦トラス橋と呼ばれる近代的なもので、飯坂温泉(現在の福島県福島市)の摺上川に架かっていましたが、翌年突如崩壊してしまいました。明治8(1875)には新たな橋が架けられ「十綱橋」と名付けられました。現在の十綱橋は大正4(1915)に架け替えられたもので、現存する国内最古級の鋼製のアーチ橋となっています。

現在の十綱橋はこちら▶︎




宮 城
C209二代歌川広重 奥州松島真景松島


二代 歌川広重《諸国名所百景 奥州松島真景》 安政6(1859)

俳人・松尾芭蕉も訪れた大小260余りの島からなる松島(現在の宮城県宮城郡松島町)は、安芸の宮島、天橋立とともに日本三景の1つに挙げられ、東北随一の名所として古くから人々の憧れる絶景でした。多くの絵師たちによって名所絵として数多く描かれた松島は、全国に広く知れ渡り、現在の賑わいにつながっています。本図は、二代 歌川広重(1826~1869)の代表作「諸国名所百景」(全85枚未完、安政6年から文久元年にかけて制作)の1枚で、「真景」とあることから当時の実在する風景を描いたものだとわかります。

現在の松島はこちら▶︎


C215勝川英斎 奥州金花山大金寺之図金華さん


勝川英斎《奥州金花山大金寺之図》 明治元年(1868)

江戸時代以前より、全島を神域とする金華山(現在の宮城県石巻市)には、弁財天を祀る金華山大金寺という女人禁制の修験の真言宗寺院があり、山形県の出羽三山、青森県の恐山とともに東奥の三大霊場として知られていました。商売繁盛や開運招福といった現世利益を祈願するため、各地から参拝者が訪れていたことが本図からもわかります。明治2年(1869)の神仏分離令によって、金華山黄金山神社として復古し、女人禁制も解かれ、現在でも多くの参拝者・観光客が訪れています。

現在の金華山はこちら▶︎



山 形
202305本間美術館様船


初代 歌川広重《六十余州名所図会 出羽 最上川月山遠望》 嘉永6年(1853)

六十余州名所図会(全70枚、目録を含む)は、嘉永6年から安政3年(1853~56)にかけて制作された初代 広重の晩年の作です。基本的に全国各地より一ヵ所ずつ名所が選ばれています。最上川の河口を鳥瞰で描き、遠くに月山を望む図です。実景を写したものではなく、種本をもとに想像で描かれましたが、舟運が盛んだった当時の様子を知ることができます。視線を左右に促すような、川の流れを大きく蛇行させる構図や、前景の舟を大きく描き、遠景の月山を小さく描くという遠近感を強調する表現によって、画面に奥行きをもたせています。

現在の最上川はこちら(最上峡芭蕉ライン観光株式会社様)


C183長谷川竹葉 山形県下名所図会 済生館済生館



長谷川竹葉《山形県下名所図会 済生館》 明治13年(1880)

済生館は、明治11年(1878)に山形県立病院として建設された擬洋風建築物です。初代山形県令・三島通庸(1835~88)の「山形の近代化を図る」という構想のもとに竣工し、文明開化の象徴とされました。「済生館」の名称は、当時の太政大臣・三条実美(1837~91)の命名したものです。当時は、同じく近代化を象徴する県庁「文翔館」のそばにありましたが、現在は霞城公園内に移築され、山形市郷土館として当時の姿を伝えています。

現在の旧済生館はこちら▶︎




秋 田
C187歌川貞秀 大日本国郡名所羽州由利郡象潟

歌川貞秀《大日本国郡名所 羽州由利郡象潟》 明治元年(1868)

象潟(現在の秋田県にかほ市)は「東の松島、西の象潟」と称されるほどの東北を代表する景勝地で、松尾芭蕉をはじめ多くの文人墨客が訪れた憧れの地でした。文化元年(1804)の象潟大地震により潟湖が隆起し陸地化しました。本図は、隆起してから半世紀以上後に描かれましたが、潟湖に大小様々な島が点在する美しい姿を伝えるもので、本荘や大舘まで鳥瞰的に描かれています。

現在の象潟はこちら▶︎






busanhin1BLOG
各地に様々な特産品がたくさんあります。
それは先人達が苦労や歴史を重ねて、今に受け継がれているものばかり。
その様子が浮世絵から見ることができます。


福 島
C162三代 歌川広重 大日本物産図絵 岩代国会津蝋実採ノ図木登り


三代 歌川広重《大日本物産図会 岩代国会津蝋実採ノ図》 明治10年(1877)


三代 歌川広重の代表作「大日本物産図会」は、日本各地の有名な物産とその生産の様子を描いたシリーズものです。明治10年(1877)の東京で開催された第1回内国勧業博覧会にあわせて出版されました。本来は2図1枚の状態でしたが、裁断されて販売されたようです。本図は、蝋の原料となる漆の実(櫨の実)の収穫の様子を描いたものです。会津は蝋燭の名産地として知られ、漆の樹液は漆塗料となり、その実からは蝋が採取されたため、漆器と蝋燭は会津の伝統的な特産となりました。

会津の蝋燭について▶︎



[岩 手]

C195三代歌川広重 陸中国牧牛之図うし


三代 歌川広重《大日本物産図会 陸中国牧牛之図》 明治10年(1877)

江戸時代の南部藩では牛馬の生産が盛んで、特に「南部牛」と呼ばれる荷駄用に適した牛が有名でした。南部牛は、1頭の雄牛と数十頭の雌牛を山野に放牧し、自然の中で自由に交配させる「牧牛」方式で飼育されていました。本図には、南部牛とされる黒毛や斑模様の毛色の牛が描かれたもので、上記の説明文には50~60頭の牛が引き綱もつけずに往来していたと書かれています。

岩手 短角牛を詳しく▶︎



[青 森]

C193三代歌川広重 津軽昆布採之図昆布


三代 歌川広重《大日本物産図会 津軽昆布採之図》 明治10年

青森の津軽海峡は真昆布の産地として知られ、江戸時代から昆布を上方などに出荷していました。本図は、海底に育った昆布を長い柄を付けた鎌で刈り取り、船の上に水揚げする様子を描いたものです。

昆布の産地と種類について▶︎



[秋 田]

C191三代 歌川広重 羽後秋田疑冬之図ふき


三代 歌川広重《大日本物産図会 羽後秋田疑冬之図》 明治10年(1877)

北海道や東北には巨大なフキ(蕗・疑冬)が自生していましたが、特に大きいものが「秋田フキ」でした。葉の直径は1メートル、高さ2メートルにもなり、江戸時代から栽培されていました。本図のように葉の下で雨宿りをしたり、馬に乗る人に下から差しかけて傘のように使いました。肉質は堅く苦味があり、主に砂糖漬けや漬け物などに加工され食べられていました。

秋田ふきについて詳しく▶︎



[北海道]

C239三代歌川広重北海道函館氷輸出之図氷


三代 歌川広重《大日本物産図会 北海道函館氷輸出之図》 明治10年(1877) 

函館では、天然氷の製造・採取を事業化しようとした中川嘉兵衛によって、明治4年(1871)より五稜郭の堀の水を利用して氷がつくられました。本図のように切り出された氷は外国商船で輸送され、「函館氷」という商品名で横浜や東京などで販売されました。当時輸入していたアメリカ・ボストンの氷は高価でしたが、安い価格で品質も良かった「函館氷」は、需要が大きく増えていき全国に流通しました。明治10年(1877)には、東京で開催された第1回内国勧業博覧会に出品し、龍紋褒章を受章したことから、商品名を「龍紋氷」に改名し販売されました。

函館氷について▶︎


いかがだったでしょうか。
一枚一枚見ていくと当時の様子が伝わってきますよね。
いつか、実物を見る旅に行ってみてはいかがでしょうか。


次回【後編 歴史的・社会的な出来事を知る】です。




【解説】本間美術館 学芸員/須藤 崇