
鷹匠 松原英俊さんインタビュー
聞き手/本間美術館Twitter部(以下、本)
2022年10月18日 天童市田麦野 松原氏自宅にて

本「本日はよろしくお願いします」
松原(以降、松)「よろしくお願いします」
本「今回、当館・本間美術館の企画の兼ね合いで、松原さんのことを知り、先ずは取材させていただきました」
松「そうだったんですね。同じ庄内の致道博物館さんには、私の写真やマタギの衣装・道具などを十何点か展示していただいてますが、本間美術館さんと関わるのは初めてですね」
本「そうなんですか!確かに本間美術館さんと松原さんの絡みは、資料や学芸員さんのお話等にも、それらしい記録はありませんでした」
松「ええ。また、東北公益文化大学さんでは、イヌワシを連れて講演したことがあります。他にも山岳ガイドの仕事もしているので、中国の山脈にある未踏峰に登頂したときの写真もあります」
本「(写真を見ながら)JAがスポンサーだったのかな、はえぬきの絵が描かれた旗を持ってますね」
松「そうですね。もう十五、六年前になるかなぁ。この山は約6500メートルありました」
本「6500?!すごいですね…」
松「それから、私の記録映像をまとめたDVDを、三年間かけて作成していただいたこともあります。それが十年ぐらい前かなぁ。文化庁から依頼を受けて、『奥羽の鷹使い』というタイトルで、35mmのでっかい映画です。これから無くなっていく文化、ということで記録に残していただいて、いまは国立民族学博物館に収められていますね」
本「やはり鷹匠や松原さんの話をすると、「あぁ〜!」と知っている人が多いんですよ。
けっこうメディア等いろんなところで出演されていますよね?」
松「まぁ鷹を使うっていうのはどうしても珍しいからね(笑)
なのでマスコミからも取材が来ることがあるんですけれども」
本「身近なところですと、天童市でカラスの駆除もされているとお聞きしています」
松「ええ、こちらに引っ越してきてから毎年やってますね」
本「あ、毎年なんですか?」
松「はい。毎年秋から冬にカラスがいっぱいやってくるので、それぐらいの時期にいつもやっています。他にも近所の公民館で、毎年春と秋の2回、講演と実演をやっています。」
本「へぇ〜!じゃあかなりお忙しいですね」
松「いや、忙しいのは時々です(笑)」
真室川町の鷹匠に弟子入り/そして鷹匠として生きる
本「松原さんはこれまで鷹匠一本でやってこられたとお聞きしているんですが…」
松「そうですね。だからちゃんとした定職についたりしたことはないです」
本「いつ頃から鷹匠をやりはじめたんですか?」
松「弟子入りしたのは大学を卒業してすぐですね」
本「なるほど。松原さんは確か慶應大学卒なんですよね?」
松「はい、慶應の文学部です」
本「お師匠さんに出会ったきっかけというのは、どういったものだったんでしょうか?」
松「私の師匠はもう二十年前に亡くなったんですが、彼はかつて『最後の鷹匠』と呼ばれていて、かなり有名な方でした。数多くの本やマスコミ・雑誌にも出ていて、当時大学生だった私はメディアで彼のことを知り、『弟子入りしたい!』と思ったんです。そして大学を卒業してすぐに、本人へ弟子入りをお願いしに行きました。」
本「お師匠さんはどちらにお住まいの方だったんですか?」
松「真室川町です。若い頃からずっとそこで鷹を使っていました」
本「松原さん自身、ご出身は?」
松「あ、私は青森です。高校まで過ごして、大学から東京に行って、卒業後に真室川町へ弟子入りして。それからはずっと山形での生活ですね」
本「もう一度原点に戻ってですが、鷹匠になりたいと思った理由ってどういうものがあったんですか?」
松「小さい頃から生き物がすごく好きで、いろんな鳥とかを飼ったり、自然の中に入って鳥や動物を観察するのが好きでした。だから大学時代はひとりで北アルプスや南アルプスなどほとんどの山を登っているうちに、大学卒業したらどんな仕事をしようかなって考えたんです。生き物がこれだけ好きなんだから、生き物に関わる仕事がしたいなと。で、そういう仕事ってどんなものがあるかなって考えたら、動物園、獣医さん、マタギとかね。獣医さんみたいにペットを扱うよりは、自然の中の生き物と関わる仕事がいいなと。でもマタギは鉄砲でクマとかを扱うので、そうではなく『生き物で生き物を捕まえる』つまり鷹で生き物を捕まえるっていう方が自分にはいちばん相応しいんじゃないかなって思ったんです。ですから前から知っていた東北の鷹匠に弟子入りするのがいいなと思ったんで、大学卒業後すぐに尋ねにいきました」

本「最初、師匠さんは受け入れてくれましたか?」
松「いや、それが…。私が弟子入りする以前から、鷹匠で生活することはまったくできないと。昔は動物の毛皮が高価で売れていたので、冬場の仕事として炭焼きとかをするよりお金になっていました。ところがだんだん毛皮の需要がなくなってしまって、獲物の動物自体が少なくなっていったのもあって、冬場の仕事としてもまったく収入には結びつかなくなったんですね。なので、師匠には何度も弟子入りを断られたんですけど。私は収入とかはまったく考えず、どんなに貧しくても『とにかく一番に自分のやりたいことをやる』んだと考えまして。生きていくためだったらいま、土木仕事でも、農家のお手伝いでも、どんな仕事をしてでも生きていける訳ですよ。そしたら、最低限の収入を稼げれば、あとは残りの時間はすべて自分のやりたいこと・好きなことをやる、っていく覚悟はありました。師匠から『いまは鷹匠では生活できない』と言われても、まったく気にならなかったですね。実際、鷹匠に弟子入りしてからずっと、最近まで土木仕事や農家の手伝い、あるいは月山に引っ越してからは民宿や少年(自然)の家の手伝いとかで、最低限の収入、つまり冬場は鷹狩り一辺倒でやって、夏場だけ最低限の現金収入を稼ぐんです。昔は土木仕事を1日やれば四千円だったんです。それを1ヶ月に20日、それを3か月間やれば24、5万円になりますよね。そのお金で一年の生活費を賄ってたんです。それで、街中で暮らすともちろんその金額では生活できないので、山の中で畑を作り、山菜やキノコをとって、やっぱりお金がかかるのは主に食事ですからね、米は作れなかったんですけど、畑は作って、山菜やキノコをとったり、冬は鷹で捕まえたウサギとかを食べたりして。だからずっと年24、5万円で生活できていましたね」
本「なるほど…ほぼ自給自足ですね」
松「半自給自足みたいな感じでしたね。だからクルマは購入金やら維持費やら税金やらかかるので、とてもとても持てなかったんですけど」
本「確かに税金やらガソリン代だってかかりますからね」
松「そうですね、だから最初は自転車でなんとか山を行き来して、その後は50ccのバイクに乗っていました。バイクであれば坂道も乗れますからね。それが30年くらいですかね。ようやくクルマの免許をとったのは49歳になってからですね。というのもバイクでは鷹を積んで移動はできないからですね、やっぱ遠くの山に行きたいとこはクルマが必要だったんです」
松「ええ、イヌワシやクマタカはかなり大きいんです」
本「いま所有されている鳥は?」
松「4羽ですね。イヌワシやクマタカのほかに、ハリスホークなどの小型のもいます」
本「4羽!4羽も食べさせていくのは大変じゃないですか…?」 ※今現在は6羽になりました。
松「そう、肉以外食べないんでね」
本「肉はどんなものを食べるんですか?」
松「肉だったらなんでも食べますね。鶏でもウサギでも。ただ、豚は脂が多すぎるので避けています。鷹には脂身はあまり与えない方がいいんです。」
本「牛だと脂身が少ないものならOK?」
松「そうですね、脂身の少ないものであれば。ただ牛肉は高いので…笑」
本「なるほど、というのも今日何か鷹用の肉をお持ちしようと思ってたんですが、いかんせん何を食べるのか分からなかったものですから…笑
脂身が少ないものがいいんですねぇ。
聞いた話によるとウサギや鶏の肉を、鷹狩りのためにペースを組んで食べさせないようにする期間を作ってるとあるんですが…」
松「最近まであったんですが、担当の方ができなくなったそうで、今年の春でホームページを閉じちゃったそうなんです。私、全然インターネットとかSNSとかが分からなくて使えないんですよ。携帯の電話以外、検索の機能も全く使っていなくて。FAXとかも送れないし、ほんとに昔人なんです。
私の大学時代の同級生がホームページを作ってくれて、今年の冬までやってたんだよな。私は今もう72歳なんですけど、高齢になって辞めた、って感じですね」
本「そうだったんですか。でも松原さんはまだまだ鷹匠を続けるんですよね?」
松「はい、雪山を歩ける限り。雪山はね、雪のない普通の山より4倍も5倍も大変なんです。かんじきを履いて深い雪の中を歩くので。それがいつまでできるか。
私の師匠は私が弟子入りした時には79歳の高齢で、家の周り100〜200メートルを歩くくらいで、雪山を歩くことが出来なくなっていたんです。私が師匠のところで学んだのは本当の基礎の基礎の部分だけで、あとは山に入って自分一人で自然から学んでいったって感じですね」
本「鷹狩りとして山に登っていて、一番苦労することは何ですか?」
松「『山で鷹を見失うこと』ですね。ずっと遠くの獲物のところまで飛んでいってしまって、山を越えて姿が見えなくなることが結構あるんです。追いかけて行くんですが、鷹自身も飛んでいくから、どこに飛んでいくのか…。だいたい飛んでいった方向を探しますが、やっぱりなかなか見つからなくてね。2日間探し回ってようやく見つけることもあります。
それから『雪崩の下敷きになった』とか様々な危険な目にも遭ってきました。
あるいは雪山で胸の高さぐらいまで潜る雪の時なんかもあって。そんな時は鷹狩りができないんですけど。もう雪の中でもがくようにしてほんの少しずつ進んだり、雪洞(かまくらのようなもの)を作って1ヶ月くらい篭もり、生うかつしながら鷹狩りしたりもします。」
本「なるほど、かなり過酷ですね…。その間の食料はどうしていたんですか?」
松「自分の食料は山に持っていけるよう、軽くて簡単に食べられるものを持っていきます。例えばビスケットとかインスタントラーメンとか。鷹でウサギなどを獲ったらそれらももちろん食べます」
本「えっと、それじゃあ今は鷹で獲物を獲って、毛皮は売れないんですよね…?
だとすると、肉などを卸すとか…?」
松「いや、肉もほとんど売れない感じですね。だから鷹の餌にしたり自分で食べたり、あとは知り合いにちょっと分けたりするくらいで…。熊なんかだと大きいからたくさんの肉が獲れて、それをある程度販売したりしてるところもあるんですけど。ただ福島原発の影響で、『おぐにのマタギ』とかは熊の肉にも放射能が入ってなかなか売れなかったりして。いま山形にもイノシシがたくさんいるんですけど、それらも放射能やイノシシ特有の病気のようなものがあって。それでやっぱり捕まえても売れなかったり、ハンターが捕まえてもただ土の中に埋めるだけになってしまったりで、勿体ないなぁって思うんです」
本「じゃあ、松原さん自体、鷹匠をやることは収入につながるというわけでもないんですね」
松「はい、まったくつながらないですね」
本「だから、いろんな方々のお手伝いなどでお金を稼ぐのは、あくまで『鷹匠をするため』ってことなんですよね?」
松「すべては『鷹匠として生きるため』ですね」
本「一般の人たちとは逆ですよね」
松「そうですね。だから私のところにも何人か『鷹匠になりたい』『弟子になりたい』って若者が訪ねてきたんですけど、やっぱりふつうの生活をしながらその合間に鷹を使ってみたいって方々がほとんどで、覚悟とか情熱とかがまったく足りないですね」
本「休日に釣りにいきますって方と同じ感覚ですよね。釣り人っていうか、ずーっとやってらっしゃる方々もいますけど、そういう人ともまた違って、自分の空いてる時間に鷹を飛ばしたいっていうか。『鷹使い』みたいになりたいって感じですよね、『鷹匠』じゃなくて」
松「クツザワさん(師匠の沓澤朝治さん)の若い頃は『鷹匠』という呼び方ではなくて、『鷹使い』ってみんな呼ばれてたんです。『鷹匠』って言葉は、昔の殿様のお抱えの鷹匠から来てるわけなんですけど、クツザワさんが新聞やマスコミで有名になってからは今のように『鷹匠』って呼び方が使われるようになったんです」
本「それだけ覚悟が違う方々というか…半分以上の人たちは遊びでやりたいって感じなんでしょうかね…」
松「確かに、生き物が好きで鷹匠になりたいって部分はあるんだろうけど、やっぱりその中でも自分の生活を投げうってでも鷹匠になりたいって感じではないですね。
私の場合は、『たとえどんなに貧しくてもいいから、鷹と生きたい』というのが基本にあって。土木仕事とかに出かけるのも、年間で25万という、もうほんとの生きるために最低限の収入、それを稼ぎ出しさえすれば、後はもう自分の鷹との生活があればいい。だから当時の生活は、電気もガスも水道もない山小屋に住んでいたんですけど、食べ物も秋のうちに缶詰やインスタントラーメンなどを小屋に持ち込んでおいてね。その缶詰も一番安いイワシの缶詰とかね、遠征に行く食料なんかも一番安いビスケットやインスタントラーメンを買っておいて。たまには少し立派な魚を食べたいって思ってもお金がないから、そういうのは一切買えないんですけど、別にそんなに苦にはならなかったですね。たまには街に出て映画観たりパチンコやりたい、っていうのも私は特にないので。
あ、ただ真室川町にいたときは図書館には本を借りに行ってましたね、本を読むのは好きでしたから。あと山登りは好きですからね、たまにはちょっと遠くの山まで出かけたりもしてました。結婚してからようやく、うちの家内に鷹の世話を任せて海外の山にも何度か行けるようになりましたね。(写真を見せながら)これは中国の山で、1ヶ月間行って雪山で生活してました」


本「奥様は、鷹匠としての松原さんをどんな風に思われていたんでしょうか?」
松「理解はしてくれていましたね。ただ収入は相変わらず少ないから、もっと収入の高いトラックの免許取って運転手にでもなった方がいいんじゃないかと言われたことはあったんですが、私は(言うことを)聞かなかったですね」
家族
本「奥様との馴れ初めをお聞きしてもよろしいでしょうか…?」
松「う〜ん馴れ初めは…。私がたまたま福島の会津磐梯山に登りに行った時に、向こうも会社の休みで同じ山に一人旅で来ていて、そこでたまたま知り合って。彼女から道を訊かれたので、私がちょっと道を案内してね。私が山を下から登っていて途中で休憩していたところに、彼女が上の方から下りてきて道を訊いてきたので、こっちの方じゃないからって一緒に登り返したんです。その頃の彼女は、大阪の東京銀行に勤めていてね」
本「それは素敵な出会いですね。松原さんが鷹匠をやっているって知ったときの奥様の反応はどうでしたか?」
松「どうだろう…。あまりよく知らなかったんじゃないかなぁ。でも山に住んで、電気ガス水道もないところに鷹と住んでいるっていうのは、多分びっくりしたと思います」
本「ですよねー…。それからご結婚されて?」
松「ええ、それから5年間遠距離の付き合いがあって、相手は大阪、私は山形の月山のふもとにそれぞれ住んでいました」
本「5年っていうとけっこう長いですよね…」松「遠いから私もそんなに行けなくてね、私からは1年に一度くらいは行ったかな…。向こうからは大阪から1年に2回くらい、私の山小屋に訪ねてきたりして、彼女の同僚を連れてきたこともありました。向こうの親も兄弟も親戚も、みんな私との結婚に大反対で…(笑)」
本「た、大変でしたね…(笑)」
松「そうそうそう、もう全員が反対ですからね、電気も水道もガスもない山小屋生活ですから(笑)」
本「そこをどうやって結婚されたんですか…?」
松「まあ、そこは向こうがこっちに来てもいいって意志が固くて。だから反対されたとき、家を飛び出してきたりして」
本「じゃあほんとに、駆け落ちじゃないですけど、奥様が単身、それでもこの人と一緒にいたい!って飛び出してきてくれて、それで結婚に…」
松「えっとー…その飛び出した時はあの、自分の近くの友達の家に…。私のところまで来たんじゃなくて…(笑)」
本「あ、そうだったんですか!てっきりドラマチックな展開だったのかと(笑)」
松「はい(笑)それで、何年もするうちに向こうの親御さんも『仕方ないか…』ってことで。私も青森の実家の両親を連れて、大阪に挨拶に行ったりしました。ただ、結婚式とか新婚旅行とかそういうのは一切やらなくて。そんなお金もないし、元々私はそういった形式的なものが嫌いなので、たとえお金があったとしても結婚式とかはしたくないほうだったから」
本「ご結婚されたのはおいくつぐらいの頃だったんですか?」
松「えーといつだったかな…確か私が39歳くらいの年だったかと…」
本「奥様とは何歳差だったんですか?」
松「えと、妻が10歳下です」
本「10歳下?!かなりお若いですね…。じゃあ可愛かったじゃないですか〜(笑)」
松「いやいや…(笑)向こうも銀行に勤めてて、だんだん仕事が好きでなくなった時だったから、こっちに来れば山の綺麗な空気、綺麗な水があるよ的なことを言った覚えがちょっとありますね」
本「なるほど〜…やっぱり都会では味わえない生活、まったく真逆の環境っていうのも、奥様にとっては良かったんでしょうね」
松「ただ、やっぱり田麦俣は日本有数の豪雪地帯でね、毎年3メートル半は雪が降るんです。もう冬の間はしょっちゅう屋根に上って雪下ろしをしなければならないので、まさしく雪との戦いですね。鷹との訓練はすごい長い時間をかけなくてはいけなくて、鷹を腕に留めたまま長時間歩き回らなきゃいけないんですけど、その訓練のための時間さえも雪下ろしのために削り取られてしまうんです。だから私もそうだけど、ウチの家内も息子もみんな苦労はしてますね」
田麦俣から田麦野へ
本「今住んでいるこちらの場所に移ってきたのはいつ頃なんですか?」
松「私の左眼にバイ菌が入って山形大学病院に7ヶ月入院したことがあったんですけど、その後それでも良くならなくて、結局左眼は失明してしまったんですね。その状態で田麦俣から大学病院まで度々通うのは難しかったので、山形の近いところで住むところを探したんです。でも病院の近くでは安い空き家などは無くて、もう少し探す範囲を広げたらここが売り出されていたんです。それで7年前くらいにここに引っ越してきたんです」
松「雪はね…あの、ここは積雪が一メートル前後で、屋根もトタン屋根だからひとりでに滑り落ちるし、除雪機があるから外の道路に行くにもそこまで掃けば済みますからね。ですから田麦俣にいた頃の百分の一の労力で済みます」
本「3メートル半の雪を自力で雪かきだなんて、それだけで1日終わりそうですもんね…」
松「だから12月から4月まで5ヶ月間、雪の中の生活ですね。鶴岡まで下りれば雪は少ないんですけど」
本「お話を聞けば聞くほど思うんですが、よくここまで生き延びてこれましたね…」
松「ええ、鷹匠として生きるうえで、私だけじゃなくて、妻や息子をも危険に晒してしまっったこともありました。これは私のミスでもあったんですが、自分の息子を山に連れて行った時、50メートル近くの断崖絶壁を息子が滑落してしまったことがありました。その時は夏だったのでクッションとなりうる雪もなく、私が見ても、ここから落ちたら九割がた死んでしまうだろうなと思うほどのものでした。なんとか命だけは助かったんですが、顔面裂傷で頭の方も何針も縫って、前歯3本と手首の骨が折れ、全身打撲で動けなくなっているのを見つけたんです。助け起こしてなんとか連れて帰ろうにも身体も起こせず、消防に連絡して救助してもらって、なんとか九死に一生を得たといった感じでした」
本「それは、息子さんがおいくつ頃のことだったんですか?」
松「高校3年のころです」
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