1867年11月9日(慶応3年10月14日)当時の日本がひっくり返った日。

それは「大政奉還」。

幕末の世は攘夷派、開国派、その他諸々で乱世。

安政七年(1860)水戸・薩摩藩浪士約18名が、大老井伊直弼を暗殺。世にいう【桜田門外の変】である。

なぜこの事件がおきたのか。それは大老井伊直弼が安政五年(1858)勅許(ちょっきょ/君主の政治的な権限を大権に基づき発する公的な認可のこと)を得ずに、日米修好通商条約を締結し、さらに将軍の跡継ぎを徳川家茂に決めたこと。そして、これに反対した水戸藩の徳川斉昭や尊王攘夷派の大名や活動家などに投獄などを行った安政の大獄である。長州藩家臣・吉田松陰等約100人以上にのぼったとされる。

桜田門外の変をきっかけに時勢に不満を抱き現状を打破しようとする者が、尊王攘夷活動に奔走。
薩摩藩士・西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀や長州藩士・高杉晋作、久坂玄瑞、桂小五郎。土佐藩士・坂本龍馬、中岡慎太郎、後藤象二郎。出羽・清河八郎など全国の【草莽(そうもう)の志士】が生れたのである。

清河八郎
清河八郎(清河八郎記念館より借用)


公武合体派と尊王攘夷派に分断がおきる

嘉永六年(1853)ペルーの黒船来航をきっかけに、日本国内では尊王攘夷(天皇を政治の中心と考え外国人を打ち払い、国内への侵入を許さない)思想が急速に広まる一方、安藤信正と久世広周(くせひろちか)政権の幕府は公武合体(弱体化していく幕府が朝廷との結びつきを強化し政局の安定を図ること)を推進しようとした動きがおきた。公武合体に積極的だったのは朝廷の側近・岩倉具視である。公武合体は朝廷の権威を上昇させる良い機会であると天皇に進言。

一方幕府側は策として将軍家茂の正室に皇妹和宮親子内親王を迎え、朝廷側と融和をしようとした。孝明天皇は幕府の策を拒んでいたが和宮の降嫁を認め、幕府側も条件として公武融和などを約束。
しかし、尊王攘夷派から幕府は朝廷の権威をおとしめたと反感をかい、安藤信正は水戸浪士等に襲撃され失脚。【坂下門の変】久世広周も老中を免職されてしまい、世論は倒幕へと傾き始め、尊王攘夷派と公武合体派との間で様々な事件が繰り広げられるようになる。

尊王攘夷派が増す情勢下、薩摩藩は公武合体派の中心勢力になっていた。
しかし同藩にも尊王攘夷派がおり、反幕の考えをもたない島津久光に反発し、自分たちの手で幕政を改革しようとした動きがあり、和宮の降嫁を推進した京都所司代・酒井忠義等の襲撃を計画。しかしその動きを知った島津久光が伏見の船宿・寺田屋に集まっていたところを、命を受けた同藩士・奈良原喜左衛門等に粛正。世にいう【寺田屋事件】である。
薩摩藩は自藩の尊王攘夷派を処断することで姿勢が公武合体にあると証明した。

しかし後に、久光が江戸に去った京都は尊王攘夷派が息を吹き返し、
文久二年(1862)公武合体派を駆逐し朝廷の尊王攘夷派は、勅使・三条実美を江戸に送り幕府に攘夷の実行を迫った。
そして幕府は攘夷の実行と将軍家茂の上洛を約束。そして上洛に先立ち、過激な尊王攘夷派対策として京都守護職に会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)が任命された。この時容保は29歳の若さであった。当時としては大抜擢といえるのか・・。


浪士組結成

この同時期、将軍上洛の護衛隊として結成された【浪士組】も京都に上った。
浪士組結成を提言したのは清河八郎。(現庄内町清川)しかし浪士組の本当の目的は将軍警護ではなく、尊王攘夷が目的である。それに反発した近藤勇等は【新選組】を結成。そして文久三年(1863)会津藩の管轄となり将軍警護の任務と京都市中の警備にあたり、尊王攘夷派を厳しく弾圧していった。
近藤勇
新選組 近藤勇(国立国会図書館より借用)

その後、池田屋事件や長州藩がアメリカとフランスなどと戦争を行ったり、元治元年(1864)京都市中に攻め入った長州藩とそれを迎え撃った薩摩藩と会津藩等が衝突。(禁門の変、又は蛤御門の変)長州藩は大敗し尊王攘夷派は壊滅した。その後長州藩は四国艦隊(イギリス、フランス、オランダ、アメリカ)に攻め入られ、尊攘派は敗北。幕府への単純恭順を唱える保守派に長州藩政府の主導権を握られてしまうことに。そして禁門の変の責任者三家老が切腹させられ、藩主毛利敬親(たかちか)父子が伏罪書を幕府側に提出した事で、長州藩追討は幕府側の勝利に終わった。

しかし、単純恭順に反対を表したのが高杉晋作、伊藤博文、山県有朋等が騎兵隊など諸隊を組み挙兵し、藩内の富農層の支持を受けて勝利。桂小五郎(木戸孝允)等を筆頭とした新政権は【武備恭順】に藩論を改めた。同年慶応と改元した7月、土佐の脱藩浪士・坂本龍馬と中岡慎太郎の仲介により、薩摩藩名義で武器を購入。翌年慶応二年(1866)二人の活躍により犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩が【薩長同盟】を締結し、尊王倒幕へと突き進んでいった。締結の立役者・坂本龍馬と中岡慎太郎の交渉人としての働きは人知れぬ苦労があったとされており、大きく世の動きを変えていったことは間違いないだろう。


第二次長州戦争勃発


一方幕府は長州征討を再び図っていた。幕府は長州処分案の勅許を得て、藩領の削減と藩主親子の隠退(召喚)を命じたが、長州藩はこれを無視。これにより幕府は大義名分を得たとし長州藩に総攻撃を開始した。これが第二次長州戦争である。幕府軍は総勢15万人の軍勢で長州藩領の四方(芸州口、石州口、小倉口、大島口)を包囲。対する長州軍はわずか3500人余り。
大島口は幕府軍が一時は占領はしたものの高杉晋作率いる丙寅丸(へいいんまる)の夜襲を受けて敗北。小倉口の戦いでは坂本龍馬も長州艦隊の乙丑丸(いっちゅうまる)に乗り加勢した。石州口の戦いでも長州軍は勝利。この戦いでは射程距離の長いミニエー銃が活躍した事実が記録されている。
高杉晋作
高杉晋作 (国立国会図書館より借用)

同時期に関東各地では大規模な一揆が多発していた。
この年は近年にない大凶作が襲い米価が高騰した。社会情勢に対して不安と不満が爆発。世にいう【武州世直し一揆】である。常睦国、摂津国、江戸品川、陸奧国、出羽国など、あっという間に全国に及び、この時の幕府には鎮圧することが出来ず、弱体化をあらわにしてしまった。更に幕府に追い討ちをかける事態がおき、大坂城に布陣したいた将軍家茂が病に倒れ急逝。(7月20日)
翌月8月20日に家茂の死を公表し、21日に休戦協定を結ぶ結果となった。戦国の世を終わらせ、天下を取った徳川に敵はおらず世の安定と真逆に弱体化していたことがこの事からわかる。

庄内地方でも天保一二年(1840)に【国替反対一揆】という一揆があった。
幕府より転封(大名の領地を幕命で他に移す国替えのこと)を受け、庄内藩は越後国長岡七万石と大幅な削封を命じられたが、移転に伴う費用がかかるため農民や商人地主などに負担させる事に。これにより農民たちの不満が爆発し、何万人も参加した大規模な寄り合いを行なったり、参勤交代のため江戸に登ることを阻止する噂や、幕府への歎願(たんがん)のために江戸に登るなどした結果、転封の中止が決まったこともあった。(立川町史より参照/及び、清河八郎記念館で現在開催中の【齋藤治兵衛家と庄内藩】企画展でもふれている)
清河八郎記念館オフィシャルサイト(企画展ページ)


徳川最後の将軍・慶喜誕生


慶応二年(1866)12月、一橋慶喜が徳川幕府最後の将軍に就任。
早速、幕政改革に乗り出し【五局制度】(従来の老中、若年寄三奉制度を刷新)【慶応の革改】(陸軍を拡充しフランス式軍事教練を行う)による幕府軍強化を図った。しかしその矢先、慶喜の良き理解者だったとされる孝明天皇が急逝。翌慶応三年(1867)睦仁親王(明治天皇、当時16歳)が地位を受け継ぐ。これにより多くの有力廷臣(ていしん)達が再び表舞台に戻り、幽居していた岩倉具視も入洛を許され、天皇親王政を骨子とする【済時策】を起草し政治活動を再開し始める。
慶喜
一橋慶喜 (国立国会図書館より借用)            
岩倉具視
岩倉具視 
(国立国会図書館より借用)


ぎりぎりの攻めあいが続く  そして大政奉還の勅許

同じ頃、盛んに主張されてきたのが【公議政体論】(公武合体の進化型で幕藩体制の立て直しを狙い徳川の独裁をやめさせて諸藩の結束のもと政を進めること)という新しい国家構想である。勝海舟や坂本龍馬の考えも公議政体論に沿ったもので、この考えを平和的な政権交代を慶喜に提案したのが土佐の山内容堂であった。
山内容堂
山内容堂 (国立国会図書館より借用)

幕府の終わりを感じとり薩長同盟の立役者・坂本龍馬や中岡慎太郎など、脱藩浪士を赦免。
龍馬は海援隊の隊長、中岡は陸援隊の隊長に就任。龍馬が提案した【船中八策】(政権を朝廷に返上する大政奉還、議会の設置や憲法の制定などを説いたもの)が決め手となり、山内容堂は【大政奉還】路線を決めた。
その後、土佐藩と薩摩藩は【薩土同盟】を結んだが、薩摩藩は武力による倒幕を諦めてはいなかった。長州藩と岩倉具視等と共に、倒幕、さらに王政復古の計画を実行しようと朝廷工作をおこなったのである。これにより薩土同盟は解消。これを機に山内容堂は慶喜に大政奉還を提言。慶喜は正式文書にし、朝廷に提出した。慶応三年10月15日(1867年11月10日)ついに大政奉還が勅許された。
慶喜は、大政奉還を果たすことにより倒幕派の挙兵を封じ込め、大政奉還後の新政権で再び主導権を握ることを目論んでいたようだ。

坂本龍馬
坂本龍馬(国立国会図書館より借用)

ここで大政奉還に尽力した坂本龍馬と中岡慎太郎が京都近江屋で何者かに襲撃され絶命。長州藩の高杉晋作も肺結核が原因で亡くなってしまったのである。
もし、この3人が死ななかったら新政権、いや今日の日本はもう少し違っていたかもしれないと私考が入ってしまう。

その後、朝廷は王政復古を宣言。天皇を中心とした新政府が誕生し、250余年続いた徳川の天下も終わりを告げた。

そして薩摩藩士等が旧幕政府を挑発し、庄内藩士等がのってしまい、江戸の薩摩藩屋敷を焼き討ちしたことを引き金に【戊辰戦争】へと雪崩れ込んでいった。
果たしてこの【大政奉還】は意味があったのであろうか。結局さらに倒幕の勢いを与えてしまった要因ではないだろうか。





駆け足で大政奉還までの流れを記しましたが、少々違っている文もあるかもしれません。その時はご容赦お願いいたします。

また、当館収蔵品の中から関係収蔵品をデータベースにてご覧いただけます。


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